薬王堂気まぐれ通信使bR44   2006・4・23
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

今日は真面目にお話しましょうね。
4月23日の日曜日、私は「広島・史学を学ぶ会」の一員として川尻町と正面に見える島、ムベ咲く上蒲刈島の歴史を探索しに出かけました。

サクラの終わった三ノ瀬・小島周辺の景色
地図で見ますと川尻と上蒲刈島の田戸港とは海上、5キロくらいの距離があるでしょうか?
昔は伝馬船を漕いで行き来したものでしょう。
と云いますのも、この度お邪魔しました川尻の光明寺さんは蒲刈島に多くの檀家があるのです。
其の光明寺、ここには日本に初めて天然痘の痘苗(疱瘡種)をロシアから持ち帰ったとされる久蔵の墓があります。
以下、当日私たちのために歴史解説をしてくださいました木村氏と、上蒲刈島で開業される歯科医・鎌田先生の協力で得られましたことを参考に綴ってみましょう。

川尻村の久蔵のことは昭和の初期に地元の郷友会で明るみに出たようです。
それは久蔵が書いた「露西亜国漂流聞書」の中に天然痘の治療のために使う痘苗を持ち帰った!ということが書かれてあったということ!
木村氏の資料に基づいて久蔵の漂流から日本への帰還までを概略説明してみましょう。
其の前に久蔵の生い立ちを少し書いておきましょう。
◎川尻に住む久蔵は9歳で父を失い母の実家近く佛通寺に小僧として6年間あずけられます。
その後、3年間四国宇和島の禅寺で修行しますが後僧職を辞し兵庫(神戸)に住む兄をしたって船乗り(水主)になります。
久蔵18歳の時でしたが当時は灘で醸造される日本酒が江戸で好評となり酒樽・米・醤油樽などを積んだ千石船が江戸を目指していたと言われます。

1810年11月22日、船乗りの久蔵(22歳)は大阪から江戸に向かう千石船(帆船)に乗りこみ出航します。
酒を陸路で運ぶには馬を使いますが運搬量も少なく日にちもかかることから当時は船が主流でした。
11月23日の夕方、紀伊水道を航行する折、防風雨に遭います。
二日後、嵐で船は舵を失って漂流が始まりました。
正月頃にはずいぶん南に流され暑かったと漂流記には記されています。
その後、北西への風が吹きだしたので帆をはって風まかせに流されたと・・・
同船していたのは男ばかり16名、北へと流されます。
年明けて1811年2月初旬の頃、船ごと岩場に打ち上げられることになります。
約3ヶ月の漂流は長かったに違いありません。
あとで調べたらカムチャッカ半島の海岸だったことが分かっています。
上陸後、二手に分かれて人を探し回ったこと、しかし寒さで7名が凍死!
その後、残された者が救助を求め付近を歩くけれど人は見つからなかったと・・・
3月10日になってロシア人に救われた時には7名になっていたとか・・・
久蔵は凍傷にあい足と手の指数本を失ったとのことです。
彼は僧職上がりのエリートであったこと、凍傷治療のために他の者達とは行動を別にしロシア人医師(ニコライ・ミハイライチ)に世話になりますが、この時にロシア語を覚え当時のヨーロッパ医療を見聞することになります。
特に天然痘においては種痘法が確立した頃で久蔵は最先端の医療を知ることになります。
3年の漂流民生活を経て1813年7月に松前藩・函館に到着します。
ロシア船でオホーツクを出航し40日ぶりに北海道に帰ってきます。
この時に天然痘の痘苗(疱瘡種)を持ち帰ったのですが藩に取り上げられ実際には使うことが出来なかったということ!
幕末の鎖国時代ですから藩の調査は特に厳しかったのでしょう。
そして1814年5月13日に郷里・広島の川尻に到着したと記されていました。
約4年間、行方不明の状態だったんですね。
カムチャッカに流された川尻の久蔵については吉村昭著「花渡る海」という本に詳しく書かれています。
花とは種痘後に出来る皮膚の赤い色を指すとか・・・

そんな久蔵さんの墓に手を合わし上蒲刈島に皆さんと車で移動しました。

同行した広島・史学を学ぶ会の面々
上蒲刈島は田戸という場所、
華岡青洲先生の弟子であった鎌田文台という医師の名前が墓碑に彫られてあるということで行ってみました。
ご子孫である鎌田一診先生(画像前列中央)に案内してもらいました。
墓碑は四国の石鎚山系で見られる青い面河石を使っていました。
蒲刈島では四国にしかない石をよく目にします。
おそらく帆船の時代、船のバランスを取るため船底に積まれた石ではないでしょうか!
そこで墓石裏に彫られてある字を拓本として採らせてもらいました。
私がしたわけではありませんよ!
同行した福山大学・久保卓哉教授が率先して作業してくださいました。

ここで拓本を採る時の注意点を記しておきましょう。

@事前に所有者の許可を得る。(かつて医院を開業していた場所に行って許可を得る!返事無し?)
A墓碑など本体を傷つけないように清掃をする。(注=碑には墨を塗ってはいけない!)
B和紙を石面に丁寧に乗せ、端をセロテープで固定すること。
C和紙を濡れタオルで抑えるか、霧吹きで水をかけ中央から抑え貼り付ける。
D乾いたタオルで余分な水分を取る。
E墨をつけたタンポを和紙に直角に当てて拓本として写し採る
F碑の周りを綺麗に清掃し、案内をしてくれた方に礼をする。

その墓碑に書かれていた内容を下に説明いたしましょう。
解読は久保教授より送られてきました文章を参考にしています。
先考とは先祖の敬称です。崎陽とは長崎のこと。当時から産婦人科や皮膚病は難治の病だったんですね。種痘という言葉も出てきます。赤い囲みのある文台という人が華岡青洲の門人として和歌山県に赴きました。
ただそれだけを見るために私達はここまで来たんですね〜!
この墓碑は隣にある敷地に置かれてありましたが火災にあって碑石が割れていました。
その空き地にはビロードモウズイカとハイアオイらしきアオイ科の植物が花を咲かせていました

ハイアオイと思われる植物
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